まち:ヘッダー4

培われた文化遺産や伝統文化をたずねて

先人が残した魅力ある文化財の数々。
遺跡・建造物・彫刻・絵画、民俗芸能、伝統工芸など・・・。
なにげない、まちのそこかしこに、刻んできた歴史の足跡が見つかります。
歩くたび、感じる遠い昔の息づかい。そして“ふるさと”の新たな発見があります。

  • 蓮花寺
  • 住吉神社
  • 三田青磁
  • 旧九鬼家住宅資料館
  • 川本幸民像

『地名の由来』
三田の地名の由来として、古刹金心寺にある弥勒菩薩像の胎内に「当地一帯を松山の庄と号す。これを金心寺恩田、悲田、敬田の三福田を以って三田と改む」と記されていたという言い伝えがあります。“まち”のあけぼのは、屋敷町周辺に形づくられた金心寺の門前町に始まるとされています。やがて、室町時代には、この地域の分郡守護であった有馬氏の守護所として三田城が築かれ、戦国の戦乱をへて、江戸時代前半から明治に入るまでの約200年間は、九鬼氏3万6千石の陣屋がおかれ、その城下町として栄えました。

『縄文・弥生・古墳時代』
三田に人々が暮らしはじめたのは、遥か3万年前の旧石器時代です。富士が丘やけやき台、すずかけ台となったかつての丘陵地では、2000年前の弥生時代のムラが丸ごと見つかっています。また、市内の丘陵地には、1300年前の墳墓である古墳が作られています。なかには、全国でも例の少ない、金銅の冠が見つかった前方後円墳もあり、高貴な身分の人物がいたことをうかがわせています。

『奈良時代』
三田の地名伝説で知られる金心寺は、遣唐使とともに大陸に渡り、学問を修めた留学僧定慧が建立したものと伝えられています。時の移ろいとともに寺院は退転していますが、弥勒菩薩さまは、人々の営みを、目を細めて眺めておられたことでしょう。屋敷町周辺で出土した大きな礎石や蓮華文様の瓦は、かつての伽藍をしのばせています。

『平安時代』
豊かな実りを伝える多くの伝説が残されています。時の権力者であった藤原氏は、その豊かさに目をつけ、摂関家荘園として三田の地を治めていきました。また、西国三十三か所観音霊場を再興したことで知られる花山法皇が隠棲したことにちなむ番外霊場、花山院菩提寺が知られ、四季折々の山里の風景のなか、現在も巡礼の参拝が続きます。

『鎌倉・室町時代』
武士が起こり、市内の各所に館が造られ、何人もの領主がこの地を駆け抜けました。摂津・丹波・播磨の三国にわたるこの地は、人・モノ・文化が行き交う要の地として在り、有馬氏が守護所を構えました。人びとは、力を合わせて浄財を募り、暮らしの安穏と豊穣を祈り、ほどよい天の恵みを願い、与えられた喜びを踊りに託しました。多くの文化財がこの時期に作られ、今に伝えられています。

『安土・桃山時代』
天下布武(てんかふぶ)の争いのなかで、領主が代わり、三田の城は戦乱に巻き込まれました。

『江戸時代』
市内の大部分は九鬼氏、東部は青木氏の領地として、豊かに安定した治世がもたらされました。水軍として天下にその名を轟かせた九鬼氏は、泰平の世に山間の地を治めることに尽くしました。豊かな暮らしから、文化が百花繚乱するこの時代に、青磁・染付・赤絵などの優れた器が生みだされ、全国でもひときわ異彩を放ちました。

『明治・大正時代』
火輪を海に・・。幕末から明治維新にかけて、開明的な藩主のもとで育ち、山国に雌伏していた多くの人物が三田を巣立って行きました。日本最初の化学者といわれる川本幸民や海外に流出する日本文化を憂い、今も脈々と受け継がれている文化財行政、文化・美術行政の礎を築いた九鬼隆一・・。綺羅星のような人物たちの足跡が町には今も残されています。